不合理が生み出すロマンチック

“あいまいさ”-大好きな言葉です」。うん、みつるんるん、コメントありがとう。あいまいさを理解してくれる人がいてうれしいよ。「人生って思い通りにいかなくてもうまくいくこともあるもんだ」ってそのとおりだよね。小川に浮かぶ笹舟のように、流れのままに漂っている。それでいてとても気持ちいい。そんな感覚でいるときが、イチバンうまくいってるときなんじゃないかね。その調子で、第四章にもいらっしゃい。きっと、いいことあるよ!

さて、今日はちょっと変わった話をしようと思う。実は、前からお伝えしていた『JOYWOW あり方の教科書』の編集が完了し、いよいよ制作行程に入った。今回は出版社をとおさずに、自費出版する。ところが、製本や付録のカード(これについては後日、詳しく書くね)の制作費を計算すると、上代を上回ってしまうことが判明。そこで、このカードをケース付きで「いかに安く作るか?」のアイデアを、うちの前座衆に出してもらうことにした。締切の今日、悪戦苦闘の末、いろんなアイデアがMLに投げられた。そいつを読みながら、「オレ、なんでこんなこと彼らにやってもらったんだろう?」と思いを巡らしてみた。そしたらね、オレにとってとても大切なある事件というか、出来事を思い出したんだね。今日は、それを書きたい!

いまから遡ること40年前。オレの母方の一族は大転換期を迎えようとしていた。母親の旧姓は「大久保」。そう、大久保家にとっての勝負の時が近づいていたというわけ。まずは、オレの母親。当時、山口県の下関でけっこう大きなクラブのチーママをやっていた彼女は、よく店に来ていた船乗りの倉園博志と恋仲になっていた。そう、彼はいまのオレの父親だ。一方、オレの生みの親である倉富欽一は、市会議員もやったことがある政治家であり、若いころはいまでいう「右翼団体」にも属していた、明治生まれのとても怖い人だった。

子供のころ、「どうしてパパは小指がないの?」とよく聞いていたが、いまとなってはその意味が明確にわかる。それほど恐ろしい人に、「好きな人ができたから別れたい」なんていえるわけがない。そこで、母は、オレが6歳の夏に「駆け落ち」を決意した。たしか、アポロ11号が月面に降り立った日だ。その感動の瞬間をテレビで見ていたオレに、突然、「東京に行くよ!」といい、そのまま寝台車に乗せられた。目的地は東京ではなく、千葉。西千葉という町におよそ2週間ほど隠れて暮らしていた。

母には弟が2人いた。上が隆(たかっしゃん)、下が賢治(けんちゃん)。オレたちが西千葉に潜んでいたころ、下のけんちゃんは九州でやっていた焼き鳥屋をつぶし、奥さんと3歳の息子とともに途方に暮れていた。上のたかっしゃんは、兄弟の中ではもっとも真面目で、唯一、堅気の道を選んだ人。九州で八幡製鉄所に勤めていた。その八幡製鉄が新日本製鐵に買収され、彼には千葉県の君津市に転勤命令が出されたところだった。君津市の大和田という町には、新日本製鐵の巨大な団地街が造られ、何万という九州人がそこに移り住んだ。まさに、リトル福岡ができあがったというわけ。

母親が西千葉に潜んでいたのは、当時独身だったたかっしゃんのところに身を寄せるためだった。夏休みが終わる直前、オレと母はたかっしゃんの住む大和田団地に合流する。時を同じくして、九州で店をつぶしたけんちゃん一家もそこにやってきた。千葉という住み慣れない町にやってきた何万という九州人。彼らに九州の味を食べさせる店を作れば、繁盛間違いなしというヤクザな読みを持って。2Kという狭いアパートで、オレと母親、けんちゃんと奥さんと息子、それに家主のたかっしゃん、なぜか遅れてやってきたばあちゃんの7人の同居生活が始まった。

母はしばらくの間、新日鐵で事務のパートをやっていたが、なにせ、人に使われるのが心底キライな人だったから、すぐに病気になって寝込んでしまった。けんちゃんは「店をやる」といって出てきたのだが、前に店をつぶしたトラウマから逃れられずに、なかなか行動が起こせなかった。千葉にやってきてから、そろそろ半年が経とうとしていた。もう今年も終わりというころ、大久保家は重大な会議を開く。

母:「けんちゃん、もう一回、店やろうや」
けんちゃん:「そうやねぇ」
母:「あんたは、腕はいいんやけど、お客さんに甘いやろ。ツケばっかしするけん、店がつぶれるったい。うちが、そういうんをちゃあんと見ちゃるけぇ、やってみようやぁ」
たかっしゃん:「そしたら、オレも会社やめる。兄弟3人でやってみようやぁ」
けんちゃん:「よし! そんならやろう。みんなでもう一回やろうやぁ。店の名前はどうするとぉ?」
母:「あんたの店やけ、“けんちゃん”でいいやんね」
けんちゃん:「そんなら“焼き鳥けんちゃん”にしょうやぁ!」

当時、7歳のオレはこのやりとりをしっかり覚えている。ワクワク、ドキドキしながら、めちゃくちゃしあわせな気持ちで聞いていたな。楽しかったよ、ほんと。

九州の味をしっかり持っているけんちゃん。そう、彼は10年以上かけて創り上げた秘伝のタレを鍋ごと持ってきていた。下関の激戦区でクラブを切り盛りしていた、水商売のプロ中のプロであるオレの母親。真面目一筋で人一倍、我慢強いたかっしゃん。3人の才能を合わせて、千葉の地に九州の味を伝える一大プロジェクトが始まった。

そこからの彼らの行動力はすごかった。その週のうちに貸店舗を見つけ、すぐに工事を済ませ、翌年の1月半ばにはもう開店の準備が整っていた。資金はどうしたんだろうね? いまとなっては謎だけど、とにかく、「焼き鳥けんちゃん」は完成したというわけ。目玉のメニューは「かしわ」。東京ならにわとりの正肉だね。塩焼きと、けんちゃん秘伝のタレ焼きがある。それに、豚バラを鉄板に押しつけてパリパリに焼いたヤツ。あとは、うずらの卵と赤いウインナー。どれも、子供のころのオレの大好物だったね。

さて、開店を一週間後に控えたある夜。夜中にふと目を覚ましたオレは不思議な光景を目にした。母とけんちゃん、たかっしゃん、それにばあちゃんがこたつに集まって、一心になにかを作っている。布団から出たオレは、彼らに聞いてみた。

オレ:「なんしよん?」
母:「マッチ作りよんよ」
オレ:「なんでマッチ作るとぉ?」
けんちゃん:「宣伝せないけんやろぉ」
たかっしゃん:「マッチに店の名前と住所書いて、団地のポストに入れるんよ」
ばあちゃん:「何百個も作らなやけ、大変よぉ」

そう、これがいまでも忘れられない大切な事件なのよ。たしか、薄緑色の無地のマッチ箱だった。そこに、マジックで「焼き鳥けんちゃん 君津市大和田××× 電話(04395)2-××××」って、手書きで書き込んでいるわけ。時計を見たら、夜中の2時だったね。たぶん、業者に作ってもらう予算がなかったんだな。元ボクサーのけんちゃんも、元ラガーのたかっしゃんもけっこう大柄な男だったから、変な光景だったよ。それがこたつで小さくなって、ヘタくそな字で「焼き鳥けんちゃん」って一生懸命書いているわけ。

「オレも書きたい」っていったら、1つ渡してくれてね、なんかとても大事なものを書いているって気分で、丁寧に、ていねいに「けんちゃん」って書いたね。そんなオレを見て、母がこういった。

商売はね、コツコツやらなダメなんよ。ちゃーんと宣伝して、いっぱい来てもらわなね

それからしばらくして、明け方だったかな。冬の凍てつく風のなか、大人たちはオーバー(当時のコート)を着込んで、マッチ持って外に出て行った。大和田団地は11階建て。ワンフロアーが12戸だから、1棟で132戸。そのアパートが15棟あったから、全部で1980戸。大久保家の4人は、そのすべてに手書きのマッチを配りまくったんだね。

はい、その甲斐あって、店はオープン初日から大繁盛! そのうち、新日鐵の人たちが頻繁に宴会で使ってくれるようになって、町ではちょっとした有名一家になった。君津駅でタクシーに乗るでしょ。「けんちゃんまで」っていえば、「はい!」って連れて行ってくれる。そんな感じだった。2年後には場所を移して、兄弟3人が1軒づつ店を構えた。うちの母親の店は「お好み焼きけんちゃん」。けんちゃんは昔からの夢だった田舎茶屋風の店が作りたくて「田舎茶屋けんちゃん」。焼き鳥の冠を譲り受けたたかっしゃんの店が「焼き鳥けんちゃん」。3軒並んで、輝くばかりの「けんちゃんチェーン」が実現した。どの店も大繁盛だったよ。

そんな大久保家の人たちは酒癖が超悪くてね。そのくせ、なにかというとみんなで飲む。ありえないくらい飲む。オレなんて、小学1年生のときに一合酒を飲まされて、高1で一升飲まされたよ。で、飲むと必ず大げんかをする。店を3つに分けたのもそのせいかもしれないね。「それをいっちゃおしまいでしょ」みたいな最後の一言を必ず、いい合っちゃうわけ。普段は仲良しなんだけどねぇ。で、しばしば、1か月も口をきかないなんて絶交状態がやってくる。そのうち、これじゃまずいってことで、また手打ちの飲み会が開催される。そうするとね、必ずあの話が出てくるの。

母:「あんときは大変やったよねぇ。みんなで徹夜でマッチ書いてねぇ」
けんちゃん:「そうよ。しかし、あれがなかったらいまの店はないけねぇ」
たかっしゃん:「けー君(オレね)も書きよったやん」
ばあちゃん:「もう、あんた、寒かったっちゃ。凍えるごたぁあったよ」

絆というかね、みんなあのマッチでつながってた。ケンカしたあとは、必ずマッチの話だったからね。

最初に店をリタイヤしたのはうちの母親。18年前にくも膜下出血で倒れて足が悪くなった。次はけんちゃん。2年前に心不全で亡くなった。パチンコ帰りでね、ソバ食べながら倒れたそうだ。最後はたかっしゃん。今年の春に癌で他界した。亡くなる1年前にはフルマラソンに参加し、ホノルルマラソンに出るのが夢だったらしい。最後まで真面目な人だったんだね。葬式に出たら、マネキンが彼のランニングシャツとパンツを着ていたよ。いまは、3軒あった店も1軒だけ。たかっしゃんとけんちゃの奥さんが2人で焼き鳥を焼いている。もし、君津市の大和田に行く機会があったら、かしわの塩焼きとタレ焼きを食べてみてね。

場所はがらりと変わってJOYWOW山手のオフィス。どう計算しても製本代だけで原価はめいっぱい。この企画のキモである「ケース付きアクションカード」を発注する予算がない。前座連中に宿題を出しておいてなんだが、どう智恵を絞っても方法は2つしかないのよ。

1)スポンサーを募ってタダで作る(ただし広告やら営業やら気持ち悪いものがつきまとう)
2)オレたちが手作りで創る

まぁ、奇跡的にものすごく安く作ってくれる業者が見つかったとしてもね、思い通りのデザインやコンテキストを求めるのはキツイでしょ。作ればいいってもんじゃないからね。で、うちの人たちの性格からして1)を選ぶわけがない。そういう営業ができる人間もいないし、広告付きの教科書なんて許すわけがない。

手作りを選ぶしかないとする。実はここにも大きな分かれ道があるのね。

1)しぶしぶ作る(普通に作る)
2)ロマンチックに創る

どうする? もちろん、2)だよね。そのためになにが必要でしょう?

「手作りという作業をロマンチックにする思いとコンテキスト」

だよね。そもそも、不合理なわけよ。なんで、ギャラも出ないのに、コンサルを本業とするようなホワイトカラー連中が、PCで出力した用紙を裁断機で1枚ずつ切って、ケースもシコシコ作って、梱包して……、みたいなことをやるのかってね。普通にやったら楽しいわけない。そのうち、「こんなこと言い出さなきゃよかった」ってなる。それが人間ですよ。あたりまえなの。

そこで、オレの頭に浮かんだのが「大久保家のマッチ」だったのね。あれはロマンチックだったよ。そう、この先、JOYWOWはでっかくなるでしょ。間違いなくなるよね。ハワイのビーチかなんかでさ、奥さん連中を日本に残してきたオレとけーちゃんは美女に囲まれたりしてるわけ。もう、2人とも白髪混じりでね。いや、けーちゃんは髪の毛残ってるかな? まぁ、いいや。で、ぶんぶんとかも、なんだかわからないけどついて来てたりしてね。

オレ:「けーちゃん、あのときのカード創りは楽しかったよね」
けー:「しや」
ぶんぶん:「裁断機でマメできて、それをまた潰しましたからね、ボクなんて」

そういう会話がしてみたいじゃない。不合理でロマンチックな体験なんて、普通に生きてたらまず、できないぜ。会社じゃ、そういうのものすごくイヤがられるしね。「なんでわたしがそんなことしなきゃならないですか!」みたいにね。

だから、そこにどんな「思い」と「コンテキスト」を乗せられるか。それを聞いてみたたかったんだね。そしたら、けっこう出たよ。

「カードは“教科書”と連動して、黒板をイメージしたデザインにする」
「カードには2大ふろくがついてきます。ふろく1 オリジナルカードボックス。ふろく2 修了証の発行」
「カード一式を“あり方の実”と名付けました」

そうね、もっとロマンチックなアイデアがありそうだけどね。創っている人たちがもう、愛おしくてたまらなくなるようなヤツね。そういうのが出たらさ、もう、前座の人たちだけに創らせないよ。オレもやるもの。つーか、やりたいでしょ、裁断機。というわけでね、きっと、『JOYWOWあり方の教科書』はミラクルになるに決まってる。早くみなさんに届けたくて、待ちきれないよ、オレ。(終わり)

Comments (1)

椰子の実日記 » emotional up-down7月 7th, 2009 at 11:06 AM

[...] 7月7日付の記事(→クリック!)です。 [...]

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