自分で決めろ!

今日はお知らせから行きましょうか。そう、男塾 第三章『人生を動かす決断のとき〜決める力を磨く』の残席があと1つになりました。5月23日(土)、今回が第三章の最終回だからね。オレも気合入れて臨むので、ぜひ、ラスト1席をゲットしてくださいね。今回から「20代割」というのもやっていて、20代の方は大幅に割引になるからね。若い人にはほんと、おすすめのワークですよ。

でもって、なんだっけ。ああ、そうだ。ケセラちゃんからの質問だったね。「ZONOさんが考える”男と女の違い”って何ですか?」。これねぇ、ほんと難しい質問だと思うな。そもそもね、男と女って一言でいっても、個人差が激しいじゃない。ある意味、男女の区別なんて身体的なものしかなくて、あとはその人自身のパーソナリティーによるところが大きいような気がする。なんて、逃げてても仕方ないから、オレなりの切り口で答えてみるよ。じゃ、いってみるね。

まずね、性別ごとに定義される「こうあるべき姿」っていうのに注目してみようかな。はっきりいって、これは時代によって異なるのね。つまりね、社会というか時勢というか、世の中の流れの中で、男女の役割がどんな風だったら都合がいいかってこと。オレが生まれたころ、昭和30年代後半といえば、日本は高度成長の真っ只中だよね。敗戦の貧しさからようやく抜け出ようとしていたころ。人口も増えたほうがいいし、できるだけ仕事に集中して稼ぎまくらなきゃいけないって風潮だったよね。

そこで、男女に求められた役割はこんな感じだった。

男性:脇目もふらず、一心不乱に働く。それも、企業という枠組みの中で、歯車として従順に与えられた仕事をこなすことが重要。余計なことは考えずに、ひたすら給料をもらうことだけ考えて生きる。

女性:男性が働くことに集中できるように、家の中で炊事洗濯、掃除といった家事に専念する。最大の役割はもちろん、1人でも多くの子供を産んで、新たな労働力として従順に育て上げること。

ね、オレの分析だから、精度は低いかもしれないけど、だいたいこんな感じじゃない? 「終身雇用」であることが企業にとっても大事だった。途中で辞められちゃ困るから、ローンで家買って、養う家族がいればリスキーな選択なんかしないだろうってことでね、上のような役割をしっかり持たせたわけ。

でもって、小学校に入学したとたんに、こういう価値観でみんなが生きるように教育されるわけだよね。テレビなんかのマスコミももちろん、この流れでいろんなものを語る。だれもが、それぞれに与えられた役割に疑問を感じることなく「それが正しい」として生活するわけだよね。

で、われわれの世代というのは、このころ生まれているわけだから、上に書いたような価値観を持った親に育てられているわけ。当然のことながら、その影響を受けまくって、やっぱり同じような役割を男女が担うと信じる人が多くなるよね。

で、しばらくそんな感じが続いて、80年代くらいかな? ちょっとずつニュアンスが変わってきたよね。世の中それほど貧しくなくなって、余裕も出てきた。キャリアウーマンみたいな言葉も登場して、必ずしも女性は主婦として生きなきゃならないってわけでもなくなるよね。でも、高度成長期に創られた男女の役割というのは、双方にとってそれほど悪くないことも多かったんだね。

男にとっては身の回りの世話をしてくれる女性が家にいるっていうのは、なにかと都合がよかったりする。女性にとっても、そこそこOLをやって働くのが面倒になったころに「そろそろ、わたしも羽を休めようかな」みたいな意味不明のこといって、さっさと主婦業に転向したとしても、それを責める人もいない。むしろ祝福されるって感じでね。まぁ、悪くないからそのままいっちゃおうみたいな感じかな。

で、この数年は少子化なんかが問題になったりして、またまた、高度成長期の役割分担が復活してきてる。「わたしは本当は働きたいのだけど、日本の将来のために、子孫を残すことを選択した」みたいにね、なんだか訳のわからない理屈がまかり通っているわけ。

で、オレが思うに、「男女の違い」って話をする前に、このおかしな役割分担からそろそろ脱却したほうがいいんじゃないかって。だってさ、ケセラちゃんのコメントにもあったでしょ。

実は私、仕事を始めてから“もう少し女らしくすれば?”や“女なんだから・・・”と言われ続け、心の中で”あんたが求める女にはなる気はないよ!”と思っていた私・・・(苦笑)

これね、ここでいうところの「女」って、全部、先に書いた役割のことをいってるわけじゃない。だれが決めたのかってことだよね。おそらく、当時の社会や企業にとって都合のいいやり方だったから、みんなでよってたかって、「それが女のあるべき姿」ってことにしちゃったわけでしょ。世界を見渡しても、いろんな時代を振り返ってみても、すごくジェネラルに「女とは」なんて定義はないじゃないですか。

これはね、とても不幸なことだとオレは思っているのだけど、男も女もね、すごくおかしな魔法にかかっているんじゃないかと。それは、

みんなと同じがいい

って魔法だよね。それが自分に合っているとか合ってないとかは考えずに、というか、意識的に思考停止させて、「人並み」「みんなと同じ人生」みたいな価値観で人生のレールをひいてしまうわけ。たとえば、女性がよくこんなことをいってるのを聞くよね。

わたしもそろそろ30歳だから、結婚して子供を産まなきゃ

聞きながらね、いつも「なんで?」ってオレは思うよ。だれが決めたんだろうね、そういう「この歳までには○○しておかなきゃ」みたいなスタイルというか行事というか、よくわからない価値観ね。男も同じ。「何歳までにはマイホームくらい持たなきゃ」みたいなね。やっぱり、同期の友人だとか親戚だとか、「まわりがそういう風に生きているから自分もそうでなくちゃおかしい」と思いこんでいるとしか、いいようがないよね。

どこかの川とかにラッコが漂流したりするじゃない。夕方のニュースでそれが流れるよね。そうすると、すごくマイナーな場所であっても、みんなでそれを見に行くでしょ。あと、ゴールデンウィークにはみんなでこぞって車で遠出するから、何十キロという渋滞ができる。ディズニーランドもそう。まぁ、子供が休みじゃなきゃ行けないからね、休日に集中するんだろうけど、たとえば、平日に学校を休ませて、空いてるディズニーランドに行くって選択もあるように思うよ。

でも、それじゃダメなんだよね。だって「みんなと同じだからいい」わけじゃない。ね、なんでそうなるんだろうね。まぁ、答えは明らかかもしれないね。つまりは、

相対価値

で生きているからじゃない? 「人と比べて自分はどれだけ幸せか」ってやっちゃうわけ。で、すごく頭を飛び越して「人より幸せ」って実感できることなんて、人生でそう多くはない。ならばって、「人と同じ程度に幸せ」であろうとするのね。隣の家族がゴールデンウィークにどっか出かけるならば、うちも出かけておかなきゃ「同じ程度の幸せ」が味わえない。あの子が28歳で結婚するなら、わたしもそのあたりで相手を見つけておかなきゃ「あの子と同じ程度に幸せ」じゃない。ああ、もう書いててイヤになってくるね。

そろそろ、前向きな話に持って行きましょう。言霊がどんどんネガティブになりそうだからね。オレの結論をいいます。「ZONOさんが考える”男と女の違い”って何ですか?」の答えね。

そんなものは自分で決めろ!

だな。「絶対価値」、すなわち、自分自身の価値観で生きてほしいってこと。これは、男塾の根底に流れるメッセージでもある。だから、あえて「漢」と書いて「おとこ」と読む、「漢らしさ」って言葉を使うのね。「男女問わず、こうやって生きてみようよ」って提案だからね。そこに男女の違いはない。男女の前に「人間」でいいんじゃないかって。で、それぞれが考えればいいじゃない。「女としてどう生きれば美しいか」「男としてどう生きればかっこいいか」。反対でもいいよね。「女としてかっこいい生き方とは?」「美しい男とは?」。ね、アリでしょ。

そうそう、時代の空気って必ずある。いろんな場所でシンクロニシティが起こり始めて、シグナルが降ってくる。じゃあ、いまどんなメッセージが送られてきているか。オレはね、「中性」ってイメージがものすごく強いんだな。ほら、テレビに「おネェ」と呼ばれる人たちがものすごくたくさん出ているでしょ。かつては、カルーセル麻紀さんや、ピーターくらいだったよね。あと、おすぎとピーコかな。どちらにしても、いまほど多くはなかったよね。

なかでも、はるな愛ちゃんなんてオレはものすごく気になる存在なんだよね。彼女はいろんな意味で素晴らしい。あの、あややのアフレコ芸って完璧じゃない? 音楽に合わせるのはそれほど難しくないけどね、しゃべりという「テンポ」のないものに、あれほど完璧に合わせるのは、そうとう練習を積まないとムリだよ。その努力というか、芸の磨き方というか、ハンパじゃないものを感じてしまうのね。

あと、美輪明宏さん。あの方も、この数年でドーンと露出が高まってきてるよね。でもって、たくさんの重要なメッセージをマスメディアから伝えている。まぁ、意地悪な味方をすれば、「男女の境が薄れてきて世の中おかしくなっている」なんだろうけど、オレは違うと思うね。そんな単純なものじゃない。世界中で同性愛が市民権を持ち始めているでしょ。やっぱり、時代を通じて、あるメッセージが送られてきているんですよ。やっぱり、それは、

自分で決める

じゃない? 男であっても女性として生きてもいい。男性が男性と結婚してもいい。女性が女性を愛してもいい。それってなにを意味してるんだ? やっぱり「人間愛」じゃないでしょうか。人が人を愛する。それ以上でも以下でもない。で、その相手を決めるのはほかでもない「自分自身」でしょ。そこに、社会や世間が決めたモラルとかスタイルとか価値観とかは、本来、介在する余地がないはず。それほど、愛というのは尊いものなんじゃないか。そいうメッセージがオレには届いているね。

はい、ここまで来てね、依然として「君は女らしくないよ」なんていうバカ男はね、相手にする価値もないわけ。ホントはね。「家に帰ってお母ちゃんのおっぱいでも吸ってろ」っていってやりなさい。でね、同窓会とかで同じ歳の友達に会ってもね、余裕かまして「えー、結婚なんてまだする気になれないよー」っていってやれ。でもって、本当に最愛の人と思える男に出会ったら、自分がいくつであっても、豪勢に結婚式やってね、ウェディングドレス着て堂々としてればいいのさ。40過ぎてたってかまわないじゃない。絶対価値、自分で決める世界だからね。

なんか、この話はやっぱり爆発しちゃうね。日ごろから「なんで?」って思うことがあまりに多くてね。ときどき、「オレが偏っているんじゃないか」って不安になることもあるよ。でも、たぶん、「自分で決める」しかないと信じている。そうそう、つい2時間ほど前、NHKで忌野清志郎さんの亡くなる直前のライブを見せていただきました。『誇り高く生きよう』って歌を聴いて、かみさんと2人で号泣したよ。ガンに侵された声帯を取り除く選択をせずに、最後まで「歌う」と決めた。その声帯から精一杯にふり絞られた声を聴いているとね、「自分なんてまだまだ全然、甘いわ」って思ってしまうよ、オレ。(おわり)

Comments (1)

Yuta5月 12th, 2009 at 11:09 PM

ZONOさんこんばんは。
久しぶりに書き込ませていただきます♪

「自分で決める」
なんとなく、この結論が出てくる気がしていました。

女のような男、男のような女、男の体を持った女、女の体を持った男、女好きな男のようでいて実は男の体をもったレズビアン、…
性転換の技術もいろいろと発展してきた中で、「自分の性にどういう関係性を持つか」といったことが、外部の人の目には見えないところで多様になされる時代に突入したという風に感じています。

生物学的に男になったり女になったり繰り返したとしても、その全過程が、「自分という性」というひとつのストーリーなのかな?とか、いろいろな捉え方ができるように思われました。

ただ、不思議なことに、男女の違いというものはどこかに確かにあるように思われます。
以前、ゲイの男性にふざけて体を触られたときには「男に触られている」という感覚があったのですが、別の機会に女装した男性に触られたときには、「女性に触られている」と感じました。
外見上の違いだけでなく、手の柔らかさとか、動きとか、そういうところに母性的なものを感じ、「この人は単に男性のような姿をした女性なんだ」と思いました。

男性の肉体をした女性、女性になりたい男性、女装趣味の男性、…外から見れば同じようかもしれないですが、一人ひとりが自分の性に持つ意味づけが全然違うように思います。

「自分で決める」時代
面白いです。

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